闇に隠れるように、そっと動き出した気配は東へと進み始めた。
それが恐らく最善なのだと思う。巫女は悲しむだろうが軍事力が違いすぎる。人ひとりが犠牲になるだけで何人、何十人もの命が救えるのなら。
ただ人質となった彼が朱雀七星士。彼を失うことが意味する事…朱雀召喚が出来ない。それだけはなんとしても避けなければならない。
鬼宿もそれは覚悟の上だろう。彼の安否を無視することは出来ないが正式な約束ではないが皇帝の前で紅南への介入をしないといった以上しばらくは安心だろう。だとしたら今自分たちがすべきことは一刻も早く残りの朱雀七星士を探し出すことだ。
井宿は空を見上げた。
残り三星、翼宿星軫宿星張宿星。どの星も少しだけ陰りがある。よくないことの前兆か。
対して青龍の星は…
「いや、やめておくのだ」
星の動きを読んだとしてもそれが正解とは限らない。警戒するに越したことはないが深読みしすぎるのは悪い癖だ。
与えられた宮殿の一室はどうにもなれない。国の未来を担う朱雀七星士として最上級のもてなしなのだろうが、役人の家で生まれ育った井宿にも豪華すぎて落ち着かない。
気を紛らわせるため書庫へと足を向けた。星宿に好きに使っていいと言われたのだ。
それに旅の途中情勢は探っていたとはいえ一個人の収集力では限りもあるし何より芳准からすべてを奪ったあの天災からの数年間は世間とは無縁の生活をしていたのだ自分の知識が正しいとはとても思えない。
好きに使っていいといった書庫の宮殿の書庫というには随分と粗末…いや実家の書庫に比べると格段に多いが想像していたほどの量はない。
けれど驚いたのは何よりも中身だった。
「これ、本当にオイラが見ていいのだ?」
過去に井宿が死にもの狂いで勉強した経書や孟子、兵法ももちろんある。
経済や他国との関係など井宿の知らない「現在」を表した書物を読み解くと止まらなくなった。
読めば読むほど浮彫になる。紅南国がどれほど弱小だということか。
表舞台に上がっていることだけこの状況だ。だとしたら非公式に揉み消されたことがどれほどあるだろう。
これをまだ少年と言ってもいい皇帝が背負うものに背筋が凍った。
子供の頃から必死に目指してきたものはこういう世界だったのだ。
どれくらいか時間が過ぎたころ、書庫に誰かが入ってきた気配がした。一瞬警戒したがその人物が星宿であると気づいた瞬間慌てて礼をした。
「そのような堅苦し礼などしなくてよい。ここには私とそなたしかいない」
無礼を承知で盗み見ると、出会った時のような神々しい服ではなく髪をおろし服も随分とラフな格好であった。
「では、お言葉に甘え失礼しますのだ」
礼を解き笑顔を向けると年相応の笑顔が見えた気がした。
「ここの書庫は使ってもよいと聞きましたが、まさか陛下まで使用されているとは思いませんでしたのだ」
「ここは官吏たちが使う書庫とはまた別で、大臣に頼んで必要な書物を最速で見つけられるよう私が集めさせた書庫…というより物置場に近いかもしれぬな」
「だっ!」
つまりここは皇帝陛下と陛下側近しか閲覧できないような厳重書類の宝庫ではないか。
「すみませんのだ。そのようなところにオイラがきてしまって」
思わず机の上の書物を隠そうとしたが、到底隠せる量でもない。
「何を言っている。私たちは仲間ではないか」
「なかま…」
「最もここに来たのはそなただけだがな」
「だ~」
納得はする。性格にもよるが文字に興味を示すのは育ちによる要因が大きい。柳宿はどうだかわからないが農家出身の鬼宿は下手したら文字すら読めないかもしれない。
「ちょうど良い機会だ。そなたとゆっくり話してみたいと思っていたのだ」
「オイラと、ですか?」
「仲間がどのような人物か知っておきたいと思うのは当然だろう?」
驚く言葉の数々に目の前の人物の気配を再度確認するが、気を隠すどころか巫女を心配し仲間の無事を安堵していたあの時と穏やかで優しい気配とまったく同じだ。
「鬼宿たちはどうだ?」
確かに仲間を思いやり、若者らしく行動力にあふれた気のいい少年たち。けれど戦うということがそれだけではいけないと井宿は知っている。
それを思うままに皇帝陛下に進言してよいものだろうか。
「私は皇帝陛下としてではなく、朱雀七星の星宿と井宿として話がしたい」
こんな風に皇帝陛下といえ話しかけられたなら美朱や鬼宿などはすんなり気を許すだろう。
けれど人間の裏の顔を幾度となく見てきた井宿は簡単に相手の懐に入ろうとは思えない。まして相手は皇帝陛下だ。
「正直なところ、良くも悪くもみんな若いと思いますのだ」
少し考え、本心をはぐらかせた。
「そう、だな…」
苦笑いする星宿は誰よりも悪い意味での「若さ」を知っているのだろう。
「ただ、オイラには鬼宿たちのような行動力はありませんのだ。見ていて怖いとは思いますが制御さえすれば大丈夫だと思いますのだ」
無意識に出た制御という言葉は井宿の人への信頼感を表している。もちろん仲間にも。
「七星だからというだけでここへ通した理由が分からぬといった感じだな」
「そのようなつもりではありませんのだ!」
「だが事実であろう」
言葉も返さず、ただキツネ目を歪めるだけ。
「よい。確かに私はそなたのことをよく知らぬ。そのように思って当然だろう」
皇太子の時とは打って変わり皇帝となってから敵意を向けられることはほぼない。彩賁帝を快く思っていない者でも表向きは媚びるかのように皇帝に話を合わせる。
四正国の貿易事情を書き示した書物が井宿の手元にある。
それはただ貿易の統計を書いただけ。それだけで四正国との関係から紅南倶東の情勢が分かったというのなら、なるほどそれなりの知識と回転のよい頭を持っている。
そのような人物が自分の前で心の内をそのままとは言わないが偽ろうとはせず不信感を隠さない。星宿としてはこれほど信頼できるものはいない。
「私たちはまだ出会ったばかりなのだ」
子供時代を孤独で過ごしたこと、巫女や七星士に夢見て焦がれたこと。わざわざ口には出さない。
「美朱や私たちが出会ったのは星の導き。けれど共にあるということはそれだけではあるまい」
皇帝…星宿の言葉に困ったように笑うだけの井宿に悲しく思いながら言葉を続ける。
「そなたに頼みたいことがある」
「頼みたいこと、ですのだ?」
「そなたの言うとおり美朱も鬼宿も皆若い。残り三星も年若いものかも知れぬ」
人を見る目はあるほうだと自負している。
「美朱たちを見守ってほしい。私は紅南国皇帝だ。皇帝であるが故に出来ぬことも多々ある。近くで見守り時に導いてほしい」
「はい。朱雀七星の名にかけて美朱を護りますのだ」
やはり星宿の言いたいこととは少し違う。
認識がまったく違うのだ。井宿と星宿にとって朱雀七星とは。
けれど星宿は訂正しない。大切な巫女が教えてくれたのだ「命令で人の心は動かせない」と。
「星宿様。鬼宿の件なのですが」
重々しく開いた口は鬼宿が倶東国へ行ったこと。
星宿自身もそうするかもしれないと思っていたが、やはり。
「人質として行った以上殺されはしないと思いますが、朱雀召喚の要となる七星をそのまま生かしておく理由は倶東にはありませんのだ。そして四神天地書…」
敵の術者の存在。
「しかしそなたも知ってのとおり我が紅南は倶東に刃向う力はない。だが言いなりになるわけにはいかぬ」
青龍の巫女を探し出したということはあちらも七星士を集めているはずだ。
早めに何か対策をしておく必要がある。
詳しい現状と互いの意見を言い合うが倶東に気づかれず鬼宿を傷けられないようにする手立てが浮かばない。
倶東と紅南の国境付近の地図を見ていた井宿が何やら思案しながら口を開いた。
「星宿様早馬を出すことができますのだ?」
「ああ…しかし」
「確かに先ほどの間者は只者ではありませんのだ。捕まえることは困難だと思いますのだ。だが追いつくだけならば」
倶東へ最短で向かう場所にはいくつかの関所がある。だが間者が時間と動力のかかる関所など使わない。だとすると通る道は限られる。
「少し遠回りになるとはいえ間者にはこの道が最短。そして効率を考えても馬を休める場所が必要ですのだ」
諸国を旅をしていたからこそ分かる。最短ルートかつ一目をさけ、馬を休めれる場所。
「恐らくここですのだ。ここに先回りして鬼宿に合流してこれを渡すことが出来れば」
井宿が取り出したのは小さな数珠。修業を始めたころから身に着けていたそれは井宿の…朱雀の力が十分に備わっている。それを利用して術を仕掛ければ鬼宿の守になることは無理でも四神天地書を青龍七星が触れることが出来なくすることは出来る。数珠を天地書にかけることが出来れば。
「なるほど」
「本当はオイラが行けば簡単に鬼宿と合流することは出来るのだが…術者のオイラが仲間と別行動をしていては青龍に気づかれる恐れがありますのだ」
青龍七星士の中にも術者がいる。なるべく隠密に行動する必要がある。
「今すぐに手配しよう。せめて天地書だけは守らねば。準備が出来次第声をかける」
そう言い星宿は部屋を出た。
残った井宿は手のひらの小さな数珠をギュッと握りしめた。
何故そんなに信用出来るのだろう。見た目も口調も怪しい何者かも分からない自分こそが井宿を名乗る間者とは思わないのだろうか。
「甘いのだ」
誰も彼も、甘すぎる。
裏切りも人の醜さも間近で見てきた井宿は吐き気すら感じる。けれど
「朱雀の仲間はきっと井宿を受け入れてくれるね!」
娘娘の言葉が「仲間」と言われてからずっと頭から離れない。
運命なんて信じるか!
宿命なんか知るか!
天に浮かぶ朱雀七星の星は変わらず陰りが見える、けれど何故か先ほどよりも繋がっているような気がして…数珠を持った手をそっと広げ意識を集中した。
手放しで歓迎されても仲間として輪に入ることは出来ない。けど
朱雀七星の悲しい結末だけは、見たくない。
悲しい結末なんかもう、見たくないからそのために動こうと。
終わり
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