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放浪期





「だから!駒は1つじゃないね!」
 ピクリと眉が動く。
「みんなで護るね!」
「井宿、動かす駒いつも決まってるね!」
「読みやすいね!」
「だから負けるね!」
「いつも娘娘の勝ちね!」
 口では勝ち目がない、いや口どころか太一君付の女神である娘娘たちには敵うことなど一度たりともない。
 への字に結んで不機嫌を隠そうともせず駒を進める。
「何が一番いいかよ~く考えるね!」
 父や叔父たちと象棋(シャンチー:中国版の将棋)を指したときの勝率は半々で、官吏の父や叔父に対し経験の浅い10代の若造にしては筋がいいと褒めてくれた。
 しかしこの娘娘たちには敵うどころかいつも圧倒的に差をつけられて負け。
 だいたい娘娘たちの指し方もまずおかしい。
 不規則に変則。ルールに則る出鱈目とでもいうか。
 指南書を何度も何度も読んで覚えた井宿の象棋は破天荒な娘娘の指し方はまったく通じない。
「井宿…」
 呼ばれて顔を上げると目の前に娘娘のドアップ。
「ちゃんと集中して指してるね!?」
 だいたい…
 俺は象棋をするためにここにいるのではない。
 何故何度も何度も娘娘の相手をさせられなければいけないのか。
 口には出さないが、態度には十分出ていて井宿に自覚はないが眼光は睨んでいるかのように鋭い。
「怖い顔ね」
「怖いね」
「怖いね!」
「井宿、怖い顔してるね!」
「太一君と同じくらい怖いね」
「なっ…!」
 基本的に娘娘たちの反復するおしゃべりは流すことが多いが、これは聞きずてならない。
 引き合いにだされた相手があの太一君なのだから。
「えーんえーん」
「えーん。巫女も泣いちゃうね」
「確かに太一君の顔は砂かけばばぁかもしれないが、俺はそれほど怖い顔などしていない!」
 きっぱりと言い切った。
 過去に一度だけ本人目の前で「砂かけばばぁ」と言いひどい目にあったのはそう記憶に古いことではない。
 その教訓を得てからはそのような不用意な言葉は出さない。普段なら。
「誰が砂かけばばぁじゃ~~~~!!!!!」
 ひぃぃ!!!と背後から聞こえる声に背筋が凍った。
 これでもずいぶん慣れたと思ったがまだまだ「平気」になるには程遠い。
 固まっているとため息をつきながら「まぁよい」と言った。
「井宿、お主少々下界に降りて来い」
 急に真面目な顔をした太一君に修業か、と井宿の顔も引き締まる。
 能力を使えるようになり巫女を護り朱雀を呼び出す。これだけが今の井宿の行動理念。
 今はまず能力を使えるようになること。娘娘と遊んでいる暇などないのだ。
 だが下界に降りる場所が栄陽と聞いて井宿は息を飲んだ。
「…太一君、それが修業に必要だとは思えませんが」
 小さく反論してみる。
「誰が修業だと言った?」
「は?」
 意地悪いニヒルな笑い。
「だが能力を使う上で役に立つ事だと思うがのう」
「…っ」
 そう言われれば井宿に逃げ道はない。だが、井宿から了承の言葉はない。
 今までどんな大変で、理不尽なことにでも「能力を身につける」ためなら持ち前の真面目さと向上心でどんなことにも乗り越えてきたのを娘娘は見てきた。そんな井宿が「能力を身につけるため」の行動に難色を示す様子に娘娘たちは首をかしげる。
「どうしたね?」
 1人、2人と娘娘たちが顔を覗き込むが、娘娘たちには見向きもせず太一君をじっと見据える。
「変ね」
「おかしいね」
「井宿、七星の能力を使いこなせるようになりたくないね?」
 娘娘たちは問いかけるが反応1つ見せない。
 太一君はふっと笑い口を開く。
「過ぎたことをいつまでも」
 太一君相手に心の内を隠し通すことなどできない。
「過ぎたことの一言ですむ簡単な話ではない」
「お前1人が気にしているだけのことであろう?」
「気にしない人が、いるわけがない…」
 握った拳が震える。
 井宿の人生を変えたあの洪水以来いろんな地をさまよったが井宿の風貌を見て好意的に見てくれた人はごく少数だった。
 大半はボロボロの衣を纏い、正気を失いかけた瞳、そして隠していない大きな傷の左目。を持つ青年にまるで汚いものを見るように井宿を見ていた。
 包帯や眼帯で左目を隠した時もあった。
 けれど周りの反応はそれほど変わらず、井宿と目を合わす人などほとんどいなかった。
 傷ついていた井宿の心をさらに深く傷つけるには十分で、井宿は逃げるように人里を避けた。
 怖い。あんな思いはしたくない。
 残った井宿の正気が訴えかける。
「太一君に、俺の気持ちがわかるわけがない…」
 顔をそむけて吐き捨てるように言う。
「フン。心根の問題じゃな。甘えておる証拠じゃ」
「っ!甘えてなんかっ!」
「甘えておるじゃろう?自らが努力せずに何故赤の他人が心を開いてくれる?」
 逃げたのは現実。
 けれど、けれど…
 昔とは違う。あのころとは違う。
 怖い。
 人が怖い。
 嫉妬も裏切りも、もう何も見たくない。
「分かったね!」
 それまで黙っていた娘娘たちが嬉しそうに「分かった」「分かった!」と口々に声を上げる。
「井宿は恥ずかしいね!」
「恥ずかしいね!」
「そうね!」
 的を外れた言葉に井宿も太一君ですらも一瞬目を丸くする。
 だが太一君は真意を読み取ったらしく訳知り顔でにやりと笑う。
「ほかの人とちょっと変わったから恥ずかしいね!」
「…ちょっとなんてものじゃ」
 娘娘の「ちょっと変わった」が左目と判断した井宿は重々しく言う。
「人の前に出るのが恥ずかしいね!」
「なんて言っていいかわからないね」
「最近の井宿、ちょっと怖いね。もっと井宿明るくなるね!」
「そうね!」
「そうね!」
「井宿明るくなるね!」
「は?明るく?」
 娘娘たち得意のマシンガントークに思わず腰が引く。がそこをすかさず捕まえるのが娘娘たち。
「娘娘、いい術知ってるね」
「じゅっ、術?」
 何かしらの術をかけるというのか?
 どんな?
 分からない。
 ニコニコと屈託なく笑う娘娘たち。
 よくわからないが、警告音が鳴り響く。
 何かしらの呪文が娘娘の口から洩れると、井宿の顔からボンと煙のようなものが舞った。
 その顔を見てブッと吹き出す太一君と、大喜びの娘娘たち。
 訳が分からず恐る恐る発信源だと思う顔を触ると、左目の大きな傷がないことに気づく。
「…娘娘、俺に何をしたんだ…?」
 いい答えが返ってこないのだろうと思いながらも一応聞く。
 「似合う」とか「かわいい」とかきゃーきゃー騒ぐ娘娘たちに背筋に冷たいものが流れる。
 しばらくして親切な娘娘の1人が鏡を井宿に手渡す。
「…ッ!………」
 その姿を見て絶句した。
 これは…。
 キツネのように細い目がニコニコと笑っているようで楽しそうに見える。
 …これが、俺の顔…
「娘娘!これはっ!」
「だって、井宿恥ずかしかったね!」
「これで大丈夫ね!」
「明るいね!」
「一緒にいるときっと楽しいね」
 そして死の宣告のようなしわがれ声が聞こえた。
「その姿だと、栄陽に行くのも問題ないのう」
「え"!?」
 そのまま井宿の意思とは無関係に下界へ落とされる。
 その様子を娘娘たちは満足そうに見守った。
「この術は、ただの笑顔の面じゃないね!」
「この術は、気の持ち主の気質を表す面ね!」
「井宿は、本当はにっこり笑っているのが一番ね!」
 そうねそうね!という娘娘たちの明るい声がこだました。




 ドボォォォォン!!と盛大な水の音に近くの木で休んでいた鳥たちは一斉に飛び立った。
 少ししてその中心地から井宿が顔を出す。
 やっとのことで岸にたどり着くと、肺に入った水を出すため咳を繰り返す。
 なんとか落ち着くと、まず状況判断をした。
 何故今自分がここにいるか、それは…
「やられた…」
 まず思ったのがそれだった。
 下界に落とすだけなら何も池の上に落とさなくてもよいはずだ。今まで何度も落とされたがこんな粗い仕打ちは初めてだった。
 その理由は簡単。あの「砂かけババァ」発言を太一君は忘れていなかった。というだけだ。
 意地が悪い。
 すぐにその報復をせず時間差で来るとは、油断がならない。
 そして改めてあの発言だけは気を付けると心に誓う。
 温暖な紅南国とはいえこの季節に行水はまだ早い。肌を撫でる風は冷たく感じる。
 このままでは風邪を引く。どこか冷めた頭でそう思ったのは日頃口やかましい娘娘たちの言葉から。
 体調が悪い中無茶をして太一君と娘娘たちに囲まれ怒られたのは少し前の話。
 井宿自身風邪を引こうがどうしようが構わないが、それでは目的のため支障が出るからなるべく回避する。
 というだけのことだが進歩といいえば、進歩かもしれない。
 火でも熾し濡れた衣を乾かそうかと立ち上がり一度池を見た。
 ニコニコと天に向かって笑顔を振りまく何かが浮いているのに気づいた。
 見たことのあるそれは、先ほど娘娘の術で作られたものと同じもの。。
 咄嗟に自身の顔に手をやると触り覚えのある手の感触。
 …術が、とけている。
 あの娘娘の術がそんなに簡単に?
 そして術が解けたということは?
 心臓がドクンドクンと粗く音を立てる。
 左目には大きな傷。
 何もできずに、親友を殺した証。
 ただの、無力な…
 シャン。
 乾いた金属の音が聞こえて、思い出す。
「俺は、朱雀七星士井宿なんだ…」
 巫女を護るために生きている。
 今優先すべきことは、自分のことではない。巫女が現れるまでは能力を使えるようになること。それだけだ。
 頭を振り意識を切り替える。
 井宿にとって左目の大きな傷を隠すことは過去乗り越えるのではなく、過去を封印すること同意であった。
 浮いている笑顔を手に取ると改めてその不思議な物体に首をかしげた。
 娘娘の作ったもの。
 なんせあの娘娘なのだからそれだけでも十分過ぎる理由なのだが、そうはいかない。
 ふよふよと柔らかくて、どのような素材でできているのかも検討もつかない。
 変化の術というよりは、幼いころ祭りで買ってもらった面のようだと、なんとなく思った。
 面だというのなら、顔に着けてみる。
 が、ひらりとそのまま落ちてしまう。
 やはり支えとなるものがなければ重力に従い落ちてしまうのは当たり前。
 面が被れない。という事実に井宿は大いに焦った。
 それはこの先、大きな傷をさらして生きることがどういうことだというのかは井宿自身が十分すぎるほど知っている。
 手がわずかに震える。
 この左目を隠すことが出来ない。娘娘の術ですら出来ないのならば自分の力では到底出来るわけがない。
 知らぬうちにこんなにこの面を受け入れ、依存していたことに気づき驚く。
 子供の落書きのようなこの面が…
 とても「一般的」な顔とは思えない面が…
 それでも。
 こんな傷をさらして生きるほうがよっぽど、怖い。
 怖いと泣きだす子供。慌てて顔をそむける。「見てはいけない」実際に子供に言い聞かせる声も聞こえたこともあった。
 俺はただ、旅をしているだけだったんだ。
 それがたとえ肉体的にも精神的にもどんな状態であっても井宿にとってはそうであった。
 裏切り、拒絶。
 人間の醜さをこの1年程で嫌というほど見てきた。
 関わりたくない。けれど、
「…俺は、朱雀七星士、井宿なんだ…」
 そう思い込むと少し吐き気も楽になる。
 このようなことで立ち止まっている暇はないんだ。
 息を飲み、考える。
 『娘娘、いい術知ってるねー!』
 そうか、術か!
 作り出したのは娘娘、だが使うのは俺だ。
 術者としての基礎もまだできていないが勘で面に気を送りつけてみると、意外と簡単にできた。
 だが、恐らくは。常に気を送り続けるほどはしなくていいが、気を抜くと落ちてしまうのだろう。
 だから池に落とされたとき取れてしまったのだろう。
 風が吹くと、寒い。
 手ごろな枝を集め火を熾して上衣をぎゅっと絞り乾かす。。
 慣れたものだ。野宿のやり方なんて知らなかったのに、今はどの野草が食べれて、どうすれば薬になるのかも少しだがわかる。
 思えば、全て昔父に貰った書物に書かれていたことだ。日常生活には絶対に使わない雑学のようなものも教えてくれたのは父だった。
 流石父上は博識だ!と当時は思ったが官吏の父がそのようなこと知る必要ないし、知識を手に入れる時間さえなかっただろう。
 恐らく、朱雀七星の証を持つ自分が、どんなことがあっても困らないように出来る限りの知識を与えようとしたのか…
 その父も…
 収まっていた胃が再び動き出す。




 沈んだ思考を元に戻したのは複数の足音。
 見ると柄がいいとはとても思えない体格のいい男が3人。井宿に向かってきている。
「なんだ坊主かよ?」
「坊主なんか、金目のもん持ってるわけねーな」
 追剥か。
「おいおいこの坊さん、この寒空の下池に落ちたってか?びしょ濡れだぜ」
「どんくせー」
 げらげらと下品な笑い声。
 どうする?金目の物など持っていない。このまま逃してくれる…
「でもよー、坊さんの仏具っていい金になるんじゃねぇ?」
 わけがないか…
「というわけでー、渡してもらおうか」
 にやにやと笑いながら手を差し出すが、倣うつもりなど毛頭ない。
 生きた目をしていない僧侶など格好の餌食だったのだろう、この手の者に追われたことは何度もある。
 金目のものは持っていないが、この数珠と錫杖は持っていかれると非常に困る。さてどう切り抜けるか…
 足でも格闘でも恐らく敵わない。だったら先手必勝。
 掛けてあった上衣を手に取ると、そのまま手を出した男に向かって思いっきり一振り。
 まだ十分に水分を含んでいる上衣はそれなりに破壊力があって、男たちは一瞬怯む。その隙に走り出す。
「こんのクソボーズがああ!!!」
 思わぬ反撃に目の色を変えて追いかけてくる。
 渾身の力で逃げる井宿。だが走り慣れている相手に敵うはずもなく距離はだんだん狭まってくる。
 けれど盗賊たちの中にも得手不得手があり、自然足の順に並ぶ。
 1番足の速いものが井宿の真後ろに来たとき、振り返りざまに錫杖でなぎ倒す。
 ガツンという音とともに男は倒れ込む。
 同じ要領で残り2人を倒す。
 十分に引き離したところで、へたり込んだ。
 酸素が足りない。汗がだらだらと流れ落ちて、もはや池の水で濡れているのか汗で濡れているのかもわからない。
 どうせ同じだからと上衣を着るとひんやりしていて心地よい。
 息が整った頃、今いる場所を改めてみると少し先に街があるのがわかる。
 まさか、と思いながらすれ違う人を見ると旅の行商のようで、大きな街なのだと分かる。
 太一君のことだから、栄陽に間違いないのだろう。
 どうする…
 自然と手が傷を確認する。
 面がついたままだ。
 どうする?
 大きな傷は今はない。
 だけど…
 何度も沁みこまされた思いはそう簡単には割り切れなくて。
 けれど
 巫女を護ると決めた以上、最低限は人とかかわらなけばいけないのだろう、と冷静な自分がそう告げている。
 笑顔の面。
 もう一度確認して、自分の気を送ってはがれることがないようにして。
「俺は、朱雀七星士、井宿だ」
 行くしかないんだろう。




「井宿ぃぃぃ!!!!」
「すごいね、ちゃんと任務完了ね!」
「頑張ったね!」
「すごいねー!!!」
「えらいえらい」
 任務完了直後、背を叩かれ振り返ると娘娘が1人いた。
 大極山へ戻るといつものように娘娘たちの歓迎。
 展開の早さに少しついていけず、あの覚悟と緊張は一体なんだったんだろうと思わず自問自答してしまう。
「戻りました、太一君」
 そういい頼まれたものを渡そうとする。
「なんじゃその恰好は?」
 いや、誰がこんな恰好にしたかって?あまりの言いように苦笑するしかない。
「少しは身なりを整えようという気がなかったのかのぅ」
 そういえば、そういう発想はなかった。
「どんなに表面をつくろっても、その恰好じゃ目を引いたじゃろう?」
 そういえば…通り過ぎる人がこっちを見ていた気が…しなくもないが、あまり気にならなかった。
 明らかに今までの目とは違っていたから。
 これが、この面の効果なのか?
 そうか…これが…
 井宿の心情を知ってか知らずか、いや知っているからこそ鼻をフンとならした。
「まぁよい。買い物ごときに時間がかかりぎじゃ」
 面に頼るということが今はよいかもしれないが、後々どういうことか本人が一番わかるだろう。
「さ、井宿あったかいうちに食べるね!」
「肉まんおいしいね!」
「あーん。してほしいね?」
「あ!でも井宿その前に着替えるね!」
「乾かすね!」
「乾かして、食べるね!」

 本日の修業。
『栄陽で肉まんを買ってこい』
 

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少年期





 何で…
 飛皋には芳准が不思議でたまらない。
 木登りだ!と言い出したのは自分だ。
 競うように走り出し先に登りはじめたのは足の速い飛皋が先。
 芳准が登りはじめようとしたとき、芳准の真上にいた飛皋は枝を掴んだ拍子に明け方の雨のしずく一気に顔に落ちてきた。
 突然のことに驚き思わず飛皋は手を滑らして芳准の上に落ちた。
 それほど高くはなかったとはいえ飛皋が怪我をしなかったのは芳准がクッションの役割をしたから。
 しかしその代償は飛び出した根に芳准は足をぶつけてしまった。
 手ごろな岩に腰かけ、冷たい川の水で芳准の足を冷やす。
「飛皋、本当に大丈夫だった?」
 怪訝に眉をひそめたのを痛みと受け止めた芳准は心配そうに声をかける。
 どう見ても、怪我をしているのは俺じゃない。
 痛いそぶりどころか、人の心配。
 いつもだ。
「ごめんね、僕が気を付けてたら」
 いつもこうだ。
「お前のほうが怪我してるだろ!俺なんかより!!」
 思わず声を荒げる。
「人の心配より自分の心配しろよ!」
 本当はこんなことを言いたいんじゃない。
 大丈夫か?
 悪かった。
 痛いだろう?
 素直に言いたいのに口から出るのは真逆のことばかり。
「そうだね」
 納得いかない。
「なんでそんなにへらへら笑ってられるんだよ……痛くないわけないだろ?」
「そりゃ痛いよ」
 なぜ笑っていられるのかが飛皋にはどうしても理解できない。
「でも痛いって言ったら、飛皋が悲しいから。それよりも飛皋に怪我がなかったほうがうれしいから。それだけ」
 笑顔で締めくくった言葉に言葉を詰まらせる。
 そうだ。
 そういうやつだ、こいつは。
 誰よりもそばにいる俺は知っている。こいつはそういうやつだと。
 わざとらしく大きくため息をつく。そして
 パコーン!
 芳准を殴った。
「いってー!何するんだよ飛皋!」
「ほら!痛いものは痛いんだよ!」
「だからって殴ること必要ないじゃん!」
 ぎゃーぎゃーと子犬のようにじゃれ合う。
 誰よりも優しくて、人を思いやることができる。
 そういうやつだから、何をしていても、一緒にいて楽しいから。
 こいつはおれの親友なんだ。
 ま、もっと男らしいやつだったらもっと良かったけどな。
 そう意地悪く飛皋は笑った。

幼少期





 母に甘え、抱っこ抱っことせがみ、にっこりと屈託なく笑う。
 我も強く、やりたいと望むも、幼くまだ不器用で思うようにならずに怒る。
 父を慕い、書を読む後姿を見て育ち、好奇心も知識欲も旺盛でこっそりと忍び込んでは叱られて泣く。
 友を思い、転んで涙を流した友に、まるで自分のことのように悲しむ。

 喜怒哀楽が激しい子。
 けれどこの年頃の子はどの子も同じようなもので誰もがこの時期を通り1つ1つゆっくりと大人への階段を上る。
 我が子もこれだけならばどこにでもいる普通の子供。
 違うのは星の宿命を持って産まれたからなのか。

 ある日のこと。芳准の両親が遠縁の葬式があり幼い芳准を残し栄陽に行くことになった。
 両親2人と離れて一月ほど過ごすということ、必ず帰ってくるということ、乳母もいるし、何よりも父も母も芳准のことを想っている。と何度も何度も諭した。
 聡明な我が子は寂しそうに顔を歪めたものの「分かった」と納得した。
 けれど旅立つ両親の背を見たとき芳准の様子が変わった。
「あ…」
 伸ばす手は届かず。
「父様…」
 涙がこぼれる。
「…母様…」
 そばにいる乳母が芳准に気づき大丈夫だと手を握る。
 馬車に乗る両親。
「会えなくなる」という現実が幼い芳准の心を支配する。
「いやだ…」
 とめどなく流れる涙。
 思わず手を振りほどき駆けるが馬車は芳准から逃げるかのように動きだす。
 それだけが今の芳准の現実。
「………」

   その時、ドンッ!という大きな音と突風が吹き砂煙が舞った。
 その衝撃に近くにいた乳母は数メートル吹き飛ばされ、馬車は大きくバランスを崩し転倒した。
 そして突風の中心地、芳准はわんわんと泣きながら両親に駆け寄った。
「父様ー!母様ー!」

 幸いにも両親には打撲だけで済み、乳母は少しの間気を失ったが大きな怪我もなく無事に意識を取り戻した。
 遠縁には詫びの手紙を送り、李家の代表として弟、芳准の叔父夫婦が出席した。
 安堵と泣き疲れて眠ってしまった我が子を両親は優しくなでる。
 頭がよく優しい子。けれど喜怒哀楽が激しく癇癪が起これば手を付けられないことも多々あった。
 産まれたときにあった右膝の字。
 その意味は知っていたがその意味の初めて目の当たりにした。
 長男、しかも長子。
 幼い子はこんなものだと芳准の祖父母も周囲の大人たちも言ったが、芳准の場合はもっと気にかけるべきだと改めて思い知った。
 恐らく無意識に出た片鱗なのだろう。
 そして、この能力(ちから)が意味することを思い、天で光る星を見上げた。


「これは父様の大切なものだと何度も言ったでしょう?」
 最近字を読むことを覚え、子供向けの簡単なものなら読めるようになった。
 だから父親の真似をしたかったのだろう。
 大人でも難解な書物を抱いて泣くばかり。
 頭ごなしに叱るだけでは逆に頑なになる。けれど「なぜ」「どうして」と理由を諭しても感情的になった子は何を言っても通じない。
 普段は年相応以上に何事にも理解を示してくれるというのに、やはりまだ幼い我が子。
 息を吐き、手を差し出しぎゅっと抱きしめる。
 トントンと優しく背を叩き、落ちつた頃を見計らって声をかける。
「芳准は父様が大好きなのね?」
 コクリと頷く。
「では、この書物がなくなったら父様はどう思う?」
「かなしい」
「芳准は、父様が悲しい思いをしてもいいのかしら?」
「いやだ」
「だったら…」
「ごめんなさい」
 よく出来ましたと少々大げさに褒める。そうすると泣いていた子はにっこりと笑う。
「母様はね、芳准の笑った顔大好きよ」
「え?」
「芳准の笑った顔を見るとね、母様とってもうれしくなるの」
「本当!?」
「それに父様もどんなに疲れていても芳准の笑った顔を見ると元気になるっておっしゃってたのよ」
「僕が笑ったら?」
「そうよ」
 するとみるみる芳准の顔が笑みが深くなる。
「僕もね、父様や母様が笑ったらとってもうれしい!」
「それに」
 秘密よ、とでも言うように声を少し小さくする。
「笑顔だと楽しいことももっと楽しくなるの。悲しいことも悲しくなくなるの。それって素敵でしょう?」
 そう言うと笑顔いっぱいに、「うん」と言った。

許嫁






  都会から喧騒離れた栄陽の外れ。

 故郷を思わせる静かな緑に囲まれた場所の木陰で芳准は書物を読んでいた。

 その真剣な眼差しに声をかけようとする者はいない。

 暗記するほど何度も何度も読んだ。だがまだ正しい解釈は出来ていない。

 正しい解釈をしたうえ、自分なりの意見を考える。

 父のためにも家族のためにも、そして自分の将来のためにも今出来るのはこうして勉学に励むこと。

 だが本当に勉学に集中したいのなら静かな室内のほうがよいはず。わざわざ大切な書物を持ち運びここまで来るのは理由がある。









 時をさかのぼること2か月ほど前の父から言われた唐突な言葉だった。

 物心ついた頃から一緒に遊んでいた幼馴染の娘が自分の許嫁と聞いたのだ。

 幼馴染をそういう対象、いやそれ以前に女性を意識したことのない芳准にとっては青天の霹靂だった。

 理屈では幼馴染の1人が生物学上女で、自分とは違うと知っていた。

 昔から何をするのも一緒で、香蘭に合わせて女の子の遊びもしたし、大人しい香蘭を強引にやんちゃな遊びに誘ったり、川遊びをしてびしょびしょに濡れて大人に怒られたこともあった。

 でも今意識してみると、自分とは違う生き物だとだんだんと理解してくる。

 昔は自分たちと大して変わらなかったというのに、自分よりずっと華奢で柔らかく丸みを帯びていて、胸だって…

 香蘭の事を思うとドキドキと飛び出しそうなくらい胸が高鳴っていることに気付いた。

 「大丈夫?」と心配そうに見つめる香蘭はむしろ逆効果で顔が真っ赤だと妹に何度もからかわれた。

 知らない気持ちに知らない胸の高まり。自分に起こる異変が分からず芳准は困惑して日常生活も困難なほど何もかもが手につかなくなった。

 すぐに収まるだろうと思っていた周囲も1か月もその状態が続くと本人のためにならないと芳准は栄陽の父の弟、つまり叔父の家へ行くように芳准に言った。

 暖かく迎えてくれた叔父の家。叔父の家には実家ほどの質量はないものの読んだことのない書物が山のようにあり役人を目指すにはもってこいの勉強の場。

 しかし与えられたのは良くも悪くも自室と同じ密閉された空間。考える時間は十二分にあって、落ち着かなくて外に出た。










 ふぅ。と一息。

 書物から目を離し空を見上げる。

 葉の間から見える空は青く澄んでいて吸い込まれそうだ。横になって見上げると空と地と一体になったような気がして心地よい。

 そう親友に言うと呆れた顔で俺に付き合ってくれた。そして香蘭は…

 瞬間体の中に熱が走り、心臓がうるさいくらいに悲鳴をあげる。

 まただ。

 香蘭を思い出すたびに、その姿を思い描くたびに、冷静になろうと努めようともうまくいかない。

 自分に起こった現象は芳准の知識の中にはなくてどうしていいか分からなくて、今まで読んだどの書物にも載ってなくて怖くて余計に混乱する。

 わずかに残る理性がそれではいけない、と書物を脇に置き小川をバシャバシャと顔を洗う。そうすると少し冷静になれたような気がする。

「あの、大丈夫ですか…?」

「え?」

 真横で芳准と同じ年頃の男が眉をひそめている。

「あ…いや、大丈夫です!」

「でも顔が少し赤いような…?」

「だ、大丈夫です!」

 動揺を隠し虚勢を張って笑うと男は信用したようで、よかったと息を吐いた。

「気分が悪くてうずくまっているのかと思いましたよ。何事もなくてよかったです」

 何事も何も芳准の心の内は混乱状態なのだが初対面の人に話すことでもない。

「心配おかけしてすみませんでした」

 そっと芳准の横の手頃な石に腰をかけた男はあれ?と声を上げた。

「最近このあたりでよく難しい顔をして巻物を読んでいる方ですよね?」

「え…確かにそうですだけど、そんなに難しい顔してますか?」

「こんな感じに」

 そう眉間にしわを寄せて表現する。男の穏やかなイメージとのギャップはなかなかのもので思わず吹き出してしまった。

「役人を目指しているのですか?」

 脇に置いてあった書物を軽くはたいて芳准に手渡した。その際に題名を見たのだろう。題名を見ただけで何の書物か瞬時に理解するということはこの男も相当な学があることがわかる。

「あなたも?」

 栄陽の都の近くには上善という昔から勉学に力を入れた町があり、実際に上善出身の役人も多い。

「いえ、教養のためですのでそれほどの知識はありません。あ…でも弟なら…」

「弟さんがいらっしゃるんですか?」

「ええ。まだ6歳ですが、一度聞いた難しい事を覚えていたり大人が驚くようなことを知っていたりするので私よりずっと頭がいいのだと思います。普段は私の後に隠れる泣き虫なんですけどね」

 兄バカですよね、と笑う。

「いえ、俺に妹がいるので気持ちはわかります。本当に普段は口ばかり達者な生意気な妹ですが」

「お互い兄バカですね」

 笑いあい、男と別れた。

 頬にひんやりとした風がふれた。空を見上げると思ったより時間が経過していることが分かった。

 叔父の家への道、ほんの少し違和感を感じたがそれが何なのかは気付かなかった。









 ある日の晩芳准は叔父に付き合ってくれと唐突に呼ばれた。

 そう叔父が切り出したのは一刻前。顔が赤くなってきた叔父は止める家族をしり目に手酌を始める。

「あの…そろそろやめたほうがいいんじゃ…」

「飲んでないじゃねーか芳准」

「いや、俺は…」

 何度も交わされた会話。

「何言ってる!許嫁が決まったんだろ?だったら大人だろ?」

 だが違うのは「許嫁」という単語が出たこと。

 3週間ほどこの家で世話になっているが禁止令でも出されたかのように許嫁に関することは会話にでなかった。

 だからこそ故郷にいた頃と比べてずっと勉強に集中することができた。

「さ、酒はほとんど飲んだことないですし、飲まれるわけにはいかないので」

「ほとんどってことは飲んだ事あるんだろ?」

「いや、それは…」

「相変わらず固いなー。顔は姉上似だってのに、中身は嫌になるくらい兄者そっくりだな」

 一瞬芳准の眉間にしわがよる。

「…それは暗に俺が女顔だと言っているんですか?」

 自らの男らしさとは無縁の女性を感じさせる優しすぎるに印象に密かにコンプレックスを抱いている芳准思わず反論する。

 その言葉に芳准の頭をガシガシと乱暴に撫でながら笑う。機嫌はいいらしいが痛みを訴えてもやめてはくれない。

「昔は可愛げがあったのに、いつのまに減らず口をたたくようになったんだこのガキは」

 さっきは大人だと言っていたのに…と痛む頭をさする。

「1つおもしろいこと教えてやるよ」

「おもしろいこと、ですか?」

「兄者が婚儀をしたのは20のときだって聞いたことあるだろ?じゃあ許嫁が決まったのはいくつの時だと思う?」

「え?」

 一般的にはよっぽど子供の時でない限り許嫁が決まると同時に両家は婚儀の準備を行う。そのあたりを理解しているからこそ芳准も苦悩しているのだが。

「14の時なんだよ」

「14歳!?」

 それならば官吏の家の嫡男として15.6の頃に婚儀を行ってもおかしくない。家の安定と跡継ぎを重んじる良家としては何か理由がない限りは6年も時間が空くということはないはずだ。

 何故…と叔父の顔を見るとクツクツと楽しそうに笑っている。

「「自分は父と同じように官吏になれるかどうかはわからないし、彼女のこともまったく知らない。彼女を幸せに、嫁いできてよかったと思えるように出来るかわからない」だってよ。婚儀なんてそんなもんだし、それが普通なのによ!」

 周囲の反対を押し切り良家には珍しい大恋愛の末婚儀を行った叔父には説得力はまったくないが、言い分は一般的なもの。だが芳准には父の言い分のほうが理解できるし、納得できる。

「嫡男が婚儀を拒否。次男が跡継ぎになるか!って言うし、李家始まって以来の大問題になったんだぞ!いい迷惑だって!」

 20年も昔のことなのに憤慨する叔父に、本当に迷惑だったとわかる。確かに長男は婚儀を拒否、次男は周囲の反対を押し切り恋愛。相当問題になっただろう。それを思い苦笑する。

 それなりの家柄の嫡男が親が決めた許嫁と婚儀を行うのは一般的で官吏という家柄上早くに婚儀を行うのは当然のことだ。実際に試験に受かるのはいつになるのかわからないのだから。

 どちらが優先順位かは分かりきっている。それをいつも沈着冷静あの父が間違えるというのは想像つかない。

「お前は幼馴染の娘が許嫁だって事はまだマシなんだぜ!」

「でも!幼馴染だからこそ!確かに香蘭のことは好きだし大切だけど、将来を共にするってことはそれだけでは、だめで…」

 そこで口が止まる。

 それって、父と同じ。

 本当は不安だったんじゃないだろうか。

 女として香蘭を意識したことだけでなく、本当は男として香蘭を護り通せるかが。

「将来が心配なら今まで以上に勉学に励めばいい、試験がどれほど難しいかは分かっている。だからこそだ。幼馴染が突然許嫁になれば混乱するのも当たり前だ。大切なのはその娘をお前が愛しく思っているかどうかだろ?」

 後は自分で考えろ。お前なら分かるだろう。そういうと今にも泣きそうな顔をしている芳准を頭を一度ぐしゃりと撫でてその場を離れた。

 1人残された芳准。

 1番大切なこと・・・

 物心ついた頃から一緒にいた香蘭には幸せになってほしい。

 香蘭を意識して混乱したのはやっぱり俺は男で彼女は女だから。

 でも香蘭と話ができないのは嫌だし会えないのはもっと嫌。

 好きだからとか愛しているとかではなく香蘭に抱く感情は大切だから、悲しむ顔は見たくないから、自分に見せる優しいあの笑顔を護りたいから。

 なんだ。いつもと同じじゃないか。そう気づくと高鳴っていた胸はゆっくりと落ち着きを取り戻した。









 故郷へ帰るのを翌日に控えた昼下がり。

 なんとなくいつも読書をしていたあの場所へ来た。

 今日の目的は読書ではなくただの散歩。

 3週間前栄陽に来た時とは違い今日は穏やかな気分だった。

 気づけば簡単なことで、自分は香蘭が好きで、護りたいんだ。

 それは家とか親がとかではなく、自分の心からの気持ちだと香蘭に伝えよう。そう決めた。

 香蘭を目の前にした時のことを考えるとまた胸はドキドキとあわただしく動くがこの気持ちを伝えない限り前へは進めない気がした。だから。

「大切なものを護るにはどうすればいいと思いますか?」

 先日知り合った同世代の男は突然振られた話題に一瞬目を丸くするがすぐに真摯な顔になる。

 しばし考えた後、ゆっくりと口を開いた。

「どういった意味での護るなのかは分かりませんが大切なのは、護れるような自分になるように努力することだと思います」

 初めて会った日の違和感の正体。それは、この男が芳准のことを知らないからこそ話せた安心感なのだろう。

 香蘭はもちろん家族も親友も、そして叔父家族も当事者であり芳准の抱える問題を知っているから。

 その言葉を聞いてわずかに微笑む。

「ありがとうございます。俺は明日故郷に帰ります」

「そうですか」

 悲しそうに眉を寄せる。

「私は王義翔と申します。上善に住んでおりますので今度栄陽に来るときは是非お尋ねください」

 私の可愛い弟も見に来てくださいと冗談っぽく笑う。

「俺は李芳准。是非その時はよろしくお願いします」

 本当に兄バカだなと苦笑しながら再開の約束を交わして、芳准は帰路に就く。

ある日のこと





 ポツリポツリ。

 そろそろ降るかもしれないと思ったがやはり。

 動物というのは敏感で気づくよりも早く、どこかへ行ったと思ったら洞窟というには小さすぎるが雨風を防ぐには十分な穴を見つけ僧侶を連れていく。

 おかげで被害は最小限だが、温暖な紅南国とはいえこの季節は少々いやかなり寒い。

 火を焚いて暖をとる。

 ぱちぱちという特有の音を聞きながら通り雨が過ぎるのを待つ。

 少しするとバシャバシャというあわただしい足音が近づき、少年が一人ひょっこりと顔を出した。

 先約がいたことに少々驚き戸惑うが、子供好きの笑みを浮かべ手招きするとおずおずとこちらへやってきた。

 やはり寒かったらしく火にかじりつく様に暖をとる少年に手ぬぐいを貸す。

 聞けば友達と遊んでいた帰りに道草を食っていたら雨に降られたらしい。こんなことなら早く帰ればよかったとふてくされる少年に、少年に分からぬように笑む。

 にゃー!と袈裟の中で暖をとっていた突然猫が飛び出した。猫がいたことに驚いたのかそれとも動物が苦手なのか思わず外へ出ようとする少年を制止する。

 一定の距離を保ちながら猫から目を離さない少年に大丈夫だと声をかける。不審に眉を顰めながらゆっくりと近づきそっと手を出してみる。

 ペロリ。

 一瞬びくりと体を揺らすが、大人しい猫の体を撫でてみる。

 目を細める猫に少年も、そして僧侶も自然と笑みが出た。

 壁に囲まれた場所というのは総じて音が響くものである。

 ぐ~っという音に自らの音に少年は顔を赤く染める。

 互いに視線をさまよわせた後、男は懐から何かを取り出す。

 それは赤ちゃんの拳ほどの大きさの餅。

 僧侶の性格上すぐに少年に渡すだろうが眉をハの字にするだけ。今朝もらったものだが食べるには少々固くなってしまった。

 僧侶は穴の隅に落ちていた木の枝を餅に刺すと火で炙りはじめた。

 餅が次第に膨らむ様を目を輝かせて見る少年にクスリと僧侶は笑う。

 じとっとした目で一瞬見られたが、それよりも食欲のほうが勝ったらしく餅を爛々と見つめる。

 頃合いで少年に渡すとにんまりと笑った。

 利口な猫に「俺のは?」とでも言うように訴えられたがとても猫に餅はあげれないし、食べないだろう。

 そ知らぬふりをすると猫は僧侶に襲いかかる。

 痛い痛いというがさして痛そうには聞こえない。良くあるじゃれ合いなのだろう。

 食べ終わったころ、背からぬくもりが少し感じて振り返るといつの間にか雨は止んだようだ。

 少年は立ち上がると穴の外へと出る。

 何度も礼を言う少年を見送って、僧侶も重い腰を上げる。

「さて、オイラたちもそろそろ行くのだ」










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